シリーズ投稿:ヘイトスピーチ解消法10周年
今年、ヘイトスピーチ解消法の施行から10年が経ちました。2013年3月に来日して以来、この法律ができた当初のニュースをよく覚えています。当時、在日外国人の間では「ようやく一歩前進した」という受け止め方が広がっていました。それから10年、街頭での差別的な示威活動は確かに減りました。しかし、その戦場は静かに、目に見えない場所へと移っています。この記事では、この10年間に実際に何が起きたのか、現行法の限界はどこにあるのか、そしてその空白を埋めようとした地方条例が何をしてきたのかを整理してみたいと思います。
「罰則なき法律」が、それでも節目とされる理由
この法律の正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」で、通称「ヘイトスピーチ解消法」と呼ばれています。2016年6月3日に公布・施行された議員立法です。
法律の核心はシンプルです。「不当な差別的言動は許されない」と宣言し、国や地方公共団体に相談体制の整備や教育・啓発活動といった責務を課しています。ただし、この法律には制定当初から繰り返し指摘されてきた性格があります。それは「理念法」であるという点です。つまり、原則を示すだけで、禁止規定も罰則も設けられていません。言い換えれば、誰かが街頭で過激な排外的スローガンを叫んだとしても、この法律だけを根拠に処罰することはできないのです。
これは立法上の見落としではなく、あえての選択でした。日本国憲法第21条は表現の自由を保障しており、ヘイトスピーチへの対策と表現の自由の過度な制限を避けることの間で、どうバランスを取るかは常に議論の的でした。理念法という形は、ある意味で当時の国会各会派が合意できた最大公約数だったと言えます。
10年で、戦場は街頭からネットへ移った
法律施行の直後、最も分かりやすい効果は街頭に現れました。かつて日本各地で公然と行われていたヘイトデモや街宣活動は、法律施行後に目に見えて減少しました。これは法務省自身が毎年の総括の中で繰り返し言及してきた変化でもあります。
しかし同時に、新たな問題が浮かび上がってきました。ヘイトスピーチは消えたわけではなく、場所を変えただけだったのです。法務省は施行8年の振り返りの中で、当初は主に街頭デモといった形で存在していたヘイトスピーチが、今ではより多様化し、選挙運動や政治活動を装った言論の中に紛れ込むケースや、SNSやネット掲示板へと広がるケースが少なくないと明確に指摘しています。この種のオンライン上の言論は拡散スピードが速く、影響範囲も広いため、被害の追跡や食い止めが一段と難しくなっています。
この10年間の主な節目を、簡単な年表にまとめてみました。
国の法律が残した空白を、地方条例が埋めている
国レベルの解消法に罰則がないからこそ、一部の地方自治体は独自の条例でこの穴を埋めようとしてきました。その代表例が川崎市です。
川崎市は2019年12月に「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」を可決し、2020年7月に全面施行しました。この条例は、全国で初めてヘイトスピーチに刑事罰を設けた地方条例となりました。手続きは三段階です。1回目の違反行為には「勧告」、2回目の違反には「命令」を出し、それでも勧告に従わず違反を繰り返した場合、市長は違反者の氏名等を公表し、最大50万円の罰金を科すことができます。法人が違反した場合は、行為者本人だけでなく法人自体も責任を問われます。
ただし、ここで一つ補足しておきたいことがあります。この条例は「ヘイトスピーチ」全般を犯罪と定めているわけではありません。実際に罰則の対象となるのは、勧告・命令を受けたにもかかわらず、条例第12条に定められた禁止行為——居住地からの退去を煽動する行為、他人の生命・身体・自由・名誉・財産に危害を加えることを煽動する行為、そして本邦外出身者を人以外のものにたとえるといった著しい侮辱行為——を繰り返した場合に限られます。ハードルは決して低くなく、これは条例が表現の自由とのバランスをできる限り取ろうとした結果でもあります。
川崎市のほかにも、大阪市、東京都、大阪府などが次々と独自の条例を制定していますが、その多くは拡散防止措置や言論内容の公表が中心で、罰則を伴うものは比較的少数です。地方レベルでのこうした模索は、ある意味で国の法律がまだ手を伸ばせていない部分を補っていると言えるでしょう。
おわりに
10年という時間をかけて、この理念法は当初の使命を一定程度果たしました。「ヘイトスピーチは許されない」という言葉が、少しずつ社会の共通認識として根づき、街頭の喧騒も確かに静かになりました。しかし同時に、その限界も露わになっています。問題がネットという、追跡も責任の所在の特定もより難しい空間へ移った今、罰則のない法律だけで実質的な歯止めをかけるのは難しいのが実情です。地方条例による模索、とりわけ川崎市の実践は、一つの補完的な道筋を示していますが、その適用範囲はやはり限られています。
これがこのシリーズで次に掘り下げたいテーマにつながります。ネット上で差別的な言動を続ける人たちとは、一体どんな人たちなのでしょうか。彼らの偏見は、なぜ「相手を選ぶ」ように向けられるのでしょうか。次回は、法律の条文から離れ、具体的な「人」に焦点を当て、ネット上のヘイトスピーチに関わる人たちの実像について考えてみたいと思います。

