江戸から明治へ—差別はどのようにして制度で作られたか

江戸から明治へ—差別はどのようにして制度で作られたか
本記事は「同和問題」シリーズの第②回(全5回)です。前回は同和問題の基本的な概念を整理しました。今回はその歴史的な根源を掘り下げます——江戸時代の身分制度がどのように差別を制度化したか、そして明治政府の「解放令」がなぜ実質的に誰も解放しなかったのかを見ていきます。

差別は、たいていの場合、突然生まれるものではありません。制度という土台が必要で、時間をかけた積み重ねが必要で、そして人々が「当然のことだ」と感じられるようにする何らかの物語が必要です。同和問題も例外ではありません。

今日の日本社会になぜ特定の出身者に対する偏見が残っているのかを理解したいなら、それが制度として固定化された時代——江戸——に立ち返る必要があります。そして、なぜ明治の「解放」が実質的な解放をもたらさなかったのかを理解するには、あの「平等宣言」の背後に何も用意されていなかったことを見届けなければなりません。

この記事が扱うのは、そういった歴史です。差別はどのようにして作られ、名目上廃止された後もなぜ根強く続いたのか。


江戸時代以前:起源には諸説ある

被差別部落の起源については、歴史学の世界でいまだ定説がなく、主にふたつの解釈が並立しています。

ひとつは、中世の職能分化に由来するという考え方です。屠畜・皮革加工・遺体の処理・清掃などを担う人々が、仏教や神道における「穢れ(けがれ)」の観念と結びつけられ、他の社会集団から徐々に疎遠にされていったという説です。

もうひとつは、こうした固定化は自然な進化ではなく、近世の政治権力が意図的に作り上げた構造だという見方です。支配者が身分の境界を設けることで、社会秩序を安定させ、下層階級の矛盾を別の方向へ向けたという解釈です。

どちらの説も互いを排除するものではありません。しかしどちらにせよ、この状況を制度として固定化し、逆転を困難なものにしたのは江戸時代(1603〜1868年)の身分管理体制でした。

江戸時代:制度が亀裂を社会構造に刻み込む

江戸幕府は厳格な身分秩序を構築しました。「士農工商」という4つの等級としてよく紹介されますが、この整理は完全ではありません。この枠組みの外側に、制度的に周縁化された別の人々が存在していました。

幕府は特定の職業に従事する人々を「穢多(えた)」および「非人(ひにん)」という身分に分類し、一連の制度的制約を課しました。

職業の強制的な固定

穢多の身分の者には、屠畜・皮革加工・履物製造、さらに遺体の処置や刑罰補助などの職務が割り当てられました。これらは社会の機能に不可欠な仕事でありながら、「穢れ」の観念と結びつけられて広く忌避されました。この体制のもとでは、職業は個人の選択ではなく出身の刻印であり、ほぼ越えることのできない境界でした。

居住地の強制的な隔離

彼らは特定の地区に集住することを求められ、他の身分の人々とは分けて置かれました。こうした地区は多くの場合、町の外縁部・川沿い・低湿地など、地理的にも社会的にも周辺に位置していました。この空間的な隔離こそが、後世において「被差別部落」が識別可能な地理的単位として残り続ける直接の原因です。

婚姻の全面的な禁止

身分をまたいだ婚姻は明確に禁じられていました。つまり身分の継承は閉じた形で行われ——この集団に生まれた者が婚姻を通じて他の階層へ「融け込む」可能性は、制度的にほぼ閉ざされていました。

この制度の恐ろしさは自己強化的な構造にあります。忌避される職業を強制される→「穢れ」のイメージが強化される→そのため婚姻が禁じられる→身分が流動しない→職業の固定が解けない——閉じた差別の循環が、制度によって固定されたのです。

なお、この身分管理が完全に均一だったわけではありません。「非人」身分には一定条件のもとで脱籍の可能性があり、各藩ごとに運用の差もありました。しかし全体として見れば、江戸時代は特定の人々を制度的に周縁化する枠組みを確立し、それが約260年間にわたって維持されました。

1871年:「解放令」の実態

1868年、明治維新が幕府体制を打倒しました。新政府の中心的な課題のひとつは、近代的な「平等」国家の建設です。1871年(明治4年)8月、明治政府は太政官布告を発しました。通称「解放令」と呼ばれるものです。

穢多非人等ノ称廃止、自今身分職業共平民同様タルベキ事
(穢多・非人などの称呼を廃止し、今後は身分・職業ともに平民と同様とすること。)

文面だけ見れば、これは完全な平等宣言です。旧来の差別身分の名称が廃止され、法的にはすべての人が平民となりました。しかし現実に生じた結果は、この宣言よりずっと複雑なものでした——多くの点で、むしろ逆効果でさえありました。

経済的支援が何もなかった

解放令は身分を廃止しましたが、それに伴う経済的な保障は何も用意されていませんでした。代々皮革加工などに従事してきた家々には技術はありました。しかし土地もなく、資本もなく、他の業種に参入するための社会的つながりもありませんでした。「平民」という法的身分は、生活の道を開く力を持ちませんでした。

職業の保護を失い、社会的な受け入れも得られなかった

江戸の体制のもとでは、皮革加工などの職業は差別こそされていたものの、制度的に「保護された」専業領域でもありました。解放令によってその保護の壁が消えると、他の平民も同じ業種に合法的に参入できるようになり、競争は一気に激化しました。それまでその職業に頼って生活してきた家々の多くが、かえって経済的に追い詰められていきました。

「新平民」:名前を変えた差別

解放令の後、これらの地域の人々は民間で「新平民」と呼ばれるようになりました。字義通りには「新たに加わった平民」ですが、実質的には新しい差別のラベルとして機能しました。法的な平等は、周囲の認識や態度を変えることができませんでした。婚姻の拒絶、就労の排除、居住地の隔離——差別は別の形で継続されました。

江戸から明治へ:差別の年表

  • 江戸初期
    身分制度の制度的固定化

    幕府が士農工商体制を確立。穢多・非人の身分が制度的に設定され、職業の固定・居住の隔離・通婚の禁止が同時に実施される。

  • 約260年
    制度の継続と偏見の内面化

    二世紀半にわたる制度の運用により、差別意識が外部からの強制を超えて社会の「常識」として内面化されていく。

  • 1868年
    明治維新

    幕府が崩壊し、新政府が「文明開化」を掲げた近代化改革を推進。身分制度の改革が議題となる。

  • 1871年
    解放令の公布

    法的に差別身分の称呼を廃止し、平等を宣言。しかし経済的支援は皆無。民間の差別意識は変わらず、「新平民」という新たな差別ラベルが生まれる。

  • 明治〜大正
    形を変えた差別の継続

    就職拒否・婚姻障害・住環境の劣悪さが続く。当事者の間で自己解放運動が静かに醸成され、1922年の全国水平社創立へとつながっていく。


なぜ歴史がここまで重要なのか

この歴史を知ることは、単なる知識の補充ではありません。今日の同和問題を理解するうえで、直接的に意味を持つふたつの点があります。

ひとつは、なぜ差別がこれほど根強いのかを説明するということ。260年以上にわたって制度が運用されたことで、差別意識は社会の日常的な認識に、さらには宗教感情や美意識にまで浸透しました。一枚の命令書や一本の法律で拭い去れるものではありません。

もうひとつは、物質的な困窮と心理的な偏見がなぜ同時に存在し、互いを強め合うのかを説明するということ。劣悪な土地への強制的な居住が基盤整備の遅れを生み、その遅れが「あの地域の人々」への負のイメージを強化し、そのイメージがまた人々をその土地から出て平等な機会を得ることを難しくする——歴史が遺したこの構造的な困難は、法律文書の文言が変わるだけでは自動的に解消されません。

明治の解放令は、「形式的平等」と「実質的平等」の間にどれほどの距離があり得るかを示す、典型的な事例として今も記憶されています。

今回の要点

① 起源:江戸時代以前から職能分化と穢れ意識の萌芽はあったが、制度的な固定化は江戸幕府の時代に起きた。

② 固定化のメカニズム:職業の強制 + 居住の隔離 + 通婚の禁止という三重の制限が、閉じた差別の循環を約260年間維持した。

③ 解放令の限界:1871年の法的な平等宣言には経済的支援が伴わず、民間の認識も変わらなかった。旧来の差別は新たな名前のもとで継続した。

④ 歴史の重さ:二世紀半の制度的積み重ねは、一度の命令では消えない——これが、その後100年以上にわたって同和問題が継続してきた理由を理解するための前提です。

次回は、この歴史の中でもっとも力強い転換点を取り上げます。1922年、当事者たちが自ら立ち上がり、京都で日本初の民間人権宣言を読み上げました。全国水平社の創立と、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉の意味を、次の回で丁寧に辿ります。

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