中田英寿は日本サッカー史上最高の選手か

中田英寿は日本サッカー史上最高の選手か

今年のワールドカップも日本代表の戦いはすでに終わりましたが、SNSを見ていると「中田英寿こそが日本サッカー史上最も偉大な選手だ」という声を今でもよく目にします。一見すると懐古趣味的な意見にも聞こえますが、彼のキャリアを細部まで振り返ってみると、この評価にはかなり確かな裏付けがあることが分かります。ピッチ上のプレーだけでなく、アジア人選手への固定観念を打ち破ったやり方、そして引退後にサッカー界からきっぱりと距離を置いた生き方まで含めて、そう言えるのです。

欧州で成功した三人の日本人選手

中田英寿の立ち位置を理解するために、後にヨーロッパで成功を収めた香川真司、本田圭佑と並べて比較してみます。

項目中田英寿香川真司本田圭佑
活躍した時代1990年代末~2000年代半ば2010年代2010年代
欧州トップリーグでの優勝セリエA優勝(ローマ、2000-01)ブンデスリーガ、プレミアリーグ優勝ロシアプレミアリーグ優勝
バロンドール候補入り3回(1998、1999、2001)なしなし
アジア年間最優秀選手2回(1997、1998)0回0回

クラブでのタイトル数では香川真司の方が多く、ワールドカップ本大会での直接的な数字では本田圭佑の方が目立ちます。それでも、突破性と国際的な認知度という点では、日本サッカーの開拓者としての中田英寿の立場は代えがたいものがあります。当時、実際にバロンドール候補の視野に入った唯一の日本人選手だったのです。

セリエA初陣:ユヴェントス戦での衝撃デビュー

1998年、21歳の中田英寿はセリエA中位クラブのペルージャに加入しました。当時、欧州の多くはこれをアジア市場開拓とスポンサー獲得を狙った「商業的な話題作り」だと冷ややかに見ていました。しかしリーグデビュー戦の相手は、前年のチャンピオンズリーグ準優勝、ジダンやデル・ピエロを擁する強豪ユヴェントスでした。ペルージャは一時0-4とリードを許しましたが、中田英寿は後半に2得点を挙げます。華麗なオーバーヘッドキックと、ゴール前での鋭い詰めの一撃で、スコアを3-4まで詰め寄りました。試合自体は敗れましたが、この90分間で「技術は細かいが対人プレーに弱い」というアジア人選手への欧州サッカー界の固定観念を打ち砕き、外国人選手に極めて厳しかったセリエA黄金期において、実力で自分への敬意を勝ち取ったのです。

ローマでの優勝:途中出場が変えた天王山

2000-01シーズン、中田英寿はローマに移籍しますが、トップ下のポジションにはクラブの絶対的な中心選手トッティが座っており、多くの時間をベンチで過ごすことになります。転機が訪れたのは2001年5月6日、首位を走るローマがアウェイで2位のユヴェントスに挑んだ一戦でした。開始6分で0-2とリードを許す苦しい展開の中、カペッロ監督は賭けとも言える采配に出ます。状態の上がらないトッティを下げ、中田英寿を投入したのです。79分、中田は30メートル先から強烈なミドルシュートを叩き込み1点を返すと、アディショナルタイムにも再びシュートを放ち、GKがこぼしたボールをチームメイトが押し込んで2-2の同点に追いつきます。この結果、ローマは優勝争いでのリードを守り切り、シーズン終了時にはクラブ史上でも数少ないセリエA制覇を成し遂げました。この30分間の途中出場は、ローマのファンの記憶に刻まれる優勝の立役者としての一幕になりました。

代表チームでの孤独:時代を20年先取りした思考

セリエAで培われた中田英寿のプレースタイルは、効率的で直接的なものでした。パスは味方の足元ではなく、あくまでスペースへ通す。味方には先を予測し、素早く飛び出すことを求める。このやり方は、年功序列や集団への服従を重んじる当時の日本代表の中では、しばしば理解のずれを生みました。味方の動き出しが遅いと、その場で不満をぶつけることもあり、日本サッカー界の内部で物議を醸したこともあります。2006年のドイツワールドカップ、日本はグループステージで敗退しました。最後の試合が終わった後、29歳の中田英寿は一人ピッチに横たわり、長い間空を見上げていたと言います。その瞬間、彼はこのチームとの、あるいはあの時代のアジアサッカーとの間にある思考の隔たりを、はっきりと感じ取っていたのかもしれません。

29歳での引退:日本のカントナ

ファンの間では、中田英寿の引退の仕方を「日本のカントナ」と呼ぶ声があります。この例えは実によく的を射ています。エリック・カントナは30歳、マンチェスター・ユナイテッドを優勝に導いた直後にきっぱりと現役を退きました。中田英寿も29歳、ワールドカップを終えた直後に同じように現役に幕を引いています。二人とも、キャリアの下り坂に留まることを拒み、周囲の記憶に残すのは常に最も充実していた時期の背中でした。引退後、カントナは映画や芸術の世界に身を投じましたが、中田英寿はまったく異なる方向へ進みます。数年をかけて日本全国47都道府県を巡り、酒蔵や伝統工芸の現場を訪ね歩き、そこから日本酒文化を世界に発信する会社を立ち上げました。プロサッカー選手時代の集中力と国際的な視野を、まったく畑違いの領域に持ち込んだのです。

蒔いた種が実を結ぶまで

中田英寿以降の日本サッカーがたどってきた道については、以前の記事でも触れたことがあります。たった一人の孤独な奮闘から、今では20人以上の選手が欧州主要リーグで主力として活躍する時代へ。日本代表はワールドカップの舞台で、もはや単なる「学ぶ側」ではなくなりました。ここでは詳しく繰り返しません。言えるのは、中田英寿がかつて一人でチームに伝えようとした考え方を、後輩たちが本当の意味で受け継いだということです。

中田英寿はインタビューでこのような趣旨のことを語ったことがあります。サッカーは人生の一つの段階に過ぎず、引退してからようやく自分自身の人生が始まるのだ、と。

ピッチ上での支配力、偏見を打ち破った先駆性、そして引退後にきっぱりと過去を振り返らなかった生き方。これらを合わせて見れば、「日本サッカー史上最も偉大な選手」という評価は、そう簡単には否定できないものだと言えるでしょう。

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